- 【 竹中半兵衛 】
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重治という名より、通称の方が有名であろう人物で、秀吉の軍師として描かれる。妻は安藤伊賀守の娘で、美濃での筋目は悪くありません。
若くして病死する彼ですが、濃厚なエピソードがありますよね。ひとつは若い頃、僅か16〜17人で稲葉山城を乗っ取り、酒色に溺れる城主(斎藤龍興)を追放。それを知った信長に、美濃半国を渡すから城を寄越せと言われたのを拒んで出奔した。彼の無欲を伝えるエピソードですが、諸説あるのはともかく、1日で、しかも少人数で堅牢な稲葉山城を奪ったのは事実。軍略のことばかり考えていたと言われる彼のことだから、どうすればこの城を落とせるか、ここを平定できるかなんてことを常に考え、城の乗っ取りも半兵衛の娯楽のひとつに過ぎなかったのかもしれません。
もうひとつは黒田官兵衛の息子を匿った話。半兵衛と官兵衛は名軍師同士であるばかりではなく、自分と似た人物と認め合い、親交を深めたので、半兵衛は彼の裏切りを信じず、やがて信長が後悔することが目に見えていた。それが第一の理由で、死期が近いのを悟っていたから、というのは理由としては小さいと思います。半兵衛の死後、子や家臣が咎められることも考えられたわけだし、自分の行動の正しさは立証される確信があったからこその行動だと思う。
ふたつの逸話から、婦人のような容貌で病弱と一見ひ弱な印象ながら、軍略の名人で意志が強く無欲な芸術家という半兵衛の人物像が想像できます。
『新史太閤記』では柴田勝家と喧嘩をして勝手に引き返し、信長に謹慎を命じられた秀吉が、毎日のように遊び呆ける。心配した浅野長政(寧々の縁者)が寧々に理由を尋ねると、彼女は半兵衛に聞いてみるように言う。半兵衛は恐らくは、と秀吉の道楽三昧の理由を推測した上で自分でも同じ行動を取ると伝えます。ここのやり取りは、直接寧々と半兵衛の両者間ではないにしても、ふたりの種類の違った賢さが表現されて好き。
アーティスト
『尻啖え孫市』(恐らく)の上杉謙信に対する表現が好き。絵描きは絵を描くのが好きだから絵を描くのであって、金のためではない。謙信が戦争を好むのは絵描きが絵を描くのと同じ、そんな感じで書かれています。そういう隣人を持ち、天下や上洛への野心を持った信玄こそ不幸、とも。確かに闘争は愉悦の謙信公は迷惑千万な隣人ですね。
半兵衛の場合、戦争そのものよりも、自分の頭の中で組み立てた軍略を試すことが好きだったと思う。地理や土地の歴史、人間関係を入念に調べた上でどう戦うか、というのを構成し、それを表現(=勝利することで軍略の正しさを確証)するのが好きとしか思えません。美濃を攻める信長の軍勢を、度々寡兵で打ち破っていますが、評価されていないのに奮戦するのも、主君への忠誠心ではなく(当時はそういうのが希薄な時代)好きで楽しいというのが第一だと思います。
アート
半兵衛は彼は人を道具としてしか見ない利己的な信長を嫌い、人蕩しの秀吉に仕え、彼の戦功に貢献しますが、同時に警戒されていることも気付きます。黒田官兵衛も同様に、頭が良い人物の悲哀に似たものがありますが、半兵衛は官兵衛以上に人間的な欲がない分、まだ良いかもしれません。荒木村重の城からやっと救出された官兵衛が、息子のことで礼を言うこともできず、同朋というか同類を失った痛手を想像すると何とも言えない。
警戒を承知で、半兵衛が秀吉に献策して戦功を上げさせたのは、秀吉の出世もまた、彼の芸術作品だったのかな、とも思います。もし明智光秀や柴田勝家、徳川家康が半兵衛に仕官を求め、彼らが秀吉のように人蕩しであったとしても仕えるだろうか? 一切の後ろ盾のない、百姓の子に過ぎない秀吉がひとつひとつ戦功を重ねて出世していくことが、半兵衛にとって魅力だったんじゃないかな。半兵衛はアーティストだから流浪しているとはいえ美濃の名門出身、織田の重臣、小国とはいえ大名という土台は、他人が手を付けたキャンバスに絵を描くような不満があったのでは? 仮に信長が半兵衛の好きなようにさせてくれる人物で、半兵衛も信長が嫌いじゃなかったとしても、時勢を作った人物に仕える価値や甲斐を見出せなかったと思う。秀吉自身の才覚や魅力は大きいにしても、半兵衛の目に秀吉は、出世させる甲斐のある人物に映ったのでは? 考えすぎは承知ですが、半兵衛を芸術家として見ると、彼が秀吉に仕えた理由は面白さが増すと思います。