- 【 妖怪 】
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室町時代頽廃期、六代将軍の落胤という若者・源四郎が、将軍になるために京に上り、そこで権力争いと幻術に翻弄される。講談社文庫。
この時代を、司馬氏が著書の中で日本的な文化の発展以外に、何の貢献もしなかった悪でしかない政権と表現していたのが印象的でした。学校の授業では7代将軍・足利義政が銀閣寺を造営した、くらいにしか習わなかったので、この足利政権の不安定さ、民衆を顧みず遊び呆けたことは知りませんでした。この話の主軸は日野富子と側室・今参りの局の争い、応仁の乱の要因ですが、わたしは学校の授業で日野富子の名を聞くことはなく、後に「悪女」だった人と、何となく知っただけなので、この話は他の作品以上に予備知識のない状態で読むことになりました。
率直に言ってしまうと、話はそれほど面白いと思いません。自分でも不思議なのですが、何作か読んだ司馬作品の中で、架空の人物を取り扱ったものがあまり好きではなく、ほとんど挫折しています。しかしこの作品には、自分の胸に強烈に響いた表現があります。富子が異常な暑がり。実際の本文は、もう少し丁寧に書かれていますが、これにはショックを受けました。日野富子は、この作品では非常に美人に書かれています。悪女に限らず物語のヒロインを美女に書くのはよくありますが、強欲な悪女・富子が暑がりなのは、その気性の激しさや行動力を的確に表していると感じました。今まで読んだ本の中で、この富子の暑がりほど、感嘆したものはありません。
主人公の源四郎はひたすらに翻弄され、当然ながら将軍になれず、最後は一緒に熊野から上洛した腹太夫と共に足軽に加わります。腹太夫の「神も仏もあるものか」という言葉は、唐天子と権力争いに翻弄され、民衆の救済を忘れた権力者また救済しようとしない神仏への強烈な批判と、この時代に対する作者の感想かもしれません。ラストは何となく芥川の『羅生門』っぽいと思うのですが、どうなんでしょう? 作者として意識しているのかどうか、ご存命だったら是非ともお伺いしたいところです。
日野富子
稀代の悪女と言われ、近年フェミニズミ的観点から過大評価されているらしい女性。この作品の彼女は、気持ちの良い悪女です。欲深で恐れを知らず、当たり前の慣習を平気で無視し、男に生まれれば良かったと言われ、将軍には「顔だけが女」と思われている。関所を設けて私腹を肥やし、お今を陥れるために策略を練る、将軍の御台所に不要な種類の賢さとしたたかさ、それを政治に無関心な夫に代わって、と擁護するのはあまりにもったいない。この作品の富子は胸がすっとするほど嫌な女で、悪女らしい魅力のある悪女です。
「わたしがこの世でこわいものは退屈ということだけです」
生身ではない源四郎を怖がる侍女に「こういうものがこわくて、この世に住めますかえ」
恐れを知らない彼女に、彼女を殺そうとしたお今の憑神・唐天子が「犬には神を信ずる心がない」「富子は犬か」
これらの台詞に富子の小気味好さを感じます。彼女の所業は褒められたものではありませんが、それでもこの作品の彼女は気持ちの良い悪女で、不思議な魅力と好感が持てます。
唐天子と本願寺
お今に憑いた神・唐天子は源四郎を利用して、富子の妨害をします。お今には恋慕に似たものを抱いているのでしょう。源四郎に限らず、多くが彼らに翻弄されますが、その唐天子が敵わないと思ったのが本願寺の門徒です。阿弥陀如来が全てを救うと固く信じる彼らに、甘い言葉を囁いて誘惑し、利用しようとしてもその信心に勝てず、恐いと思われなければ何もできない憑神は力を発揮できません。『陰陽師』で安倍清明が神とはつまり力で、人がいなければ神も存在しないと言うくだりがありますが、唐天子もまさにそう。
戦国時代の作品でしばしば登場する本願寺の信仰心・結束力は、この作品でも触れられ、そのあたりもまた乱世の始まりを上手く表現していると思いました。