- 【 蜘蛛の糸 】
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主人公・カンダタ(で良いんでしょうかね? とりあえず彼ということにして)、この名前は日本っぽくなく、中華よりも天竺テイストと思っていたら、夢枕獏の陰陽師(玄象という琵琶鬼のために盗らるること)に漢多太という鬼が登場していました。
カンダタという散々悪事を働いた男が、一度は踏み殺そうとした小さな蜘蛛を「その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ」と思い留まり助けた。これが生前唯一の善行として書かれています。地獄で苦しむこの男をご覧になったお釈迦様は、それに報いるためにカンダタを助けようとして蜘蛛の糸を下ろす。
お釈迦様は蜘蛛を助けたカンダタを助けようとするんですが、カンダタ以外に地獄で苦しむ者たちの中にも、蜘蛛を助けたくらいの善行を働いた者はなかったのでしょうか? 犬を助けた、子供や年寄りを助けた、飢える者に食べ物を分けたなど、カンダタよりも良いことをした者はなかったのでしょうか? 良いことを何ひとつしなかった者だけが地獄に落ちるなら、地獄の人口密度は低いと思いました。(カンダタのように、お釈迦様から与えられた機会を逃した者が多いとも考えられますが。)この小さな蜘蛛が、特別な存在だったのでしょうか? 神話で見られるように、神仏が小さな蜘蛛に形を変えていた。そうであれば、お釈迦様がカンダタだけに救いの手を差し伸べたのは理解できますが、文中にそんな記述は一切ありません。「蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました」としかないので、小さな蜘蛛はそれだけの存在なのでしょう。
カンダタが蜘蛛を助けたのは気紛れに似たものだと思いますが、お釈迦様は善行に報いるためとその目的がはっきり書かれています。小さな蜘蛛を救ったカンダタを救うために、蜘蛛の糸を垂らす。なぜ蜘蛛の糸? 蜘蛛を助けたから? それだけではないでしょう。お釈迦様はカンダタを救いたいが、彼が地獄を脱するに値するか試すために、頼りない蜘蛛の糸を使ったのでしょう。最後に「悲しそうな御顔をなさりながら」立ち去るのは、お釈迦様が思い出したカンダタの中の善は、カンダタという悪人の本質ではなかったと目の当たりにしたからだと思います。もしカンダタが、他の地獄の亡者たちにも地獄を脱する機会を与えたら、あるいはカンダタにだけは天国への門が開かれたかもしれませんが、お釈迦様のお心が人間に理解できるはずもありませんし、天国に入るためにカンダタが考えて行動するのは意味がありません。その人の本質が露わになる方法として選んだのが、蜘蛛の糸なのでしょうから。
カンダタの立場、視点で読むと教訓めいた話になりますが、罰当たりな表現かもしれませんがお釈迦様の立場で読むと、どうでしょう? 失望し、浅ましさを嘆き、救いを求めるために自分に縋る人間に裏切られることは今までも、これからも続き、それでも僅かな望みを信じて救済する。なんだか悲しい気持ちになります。お釈迦様は恐らく、またカンダタのような亡者を救おうとして、やはり失望するのでしょうから。
地獄を脱する望みを抱きながら、地獄へ逆戻りしたカンダタ、カンダタを救おうとして彼の浅ましさに失望するお釈迦様、両者の気持ちとは無関係に、物語の冒頭と結末で描写されているのが、極楽の蓮。これがなければ、『蜘蛛の糸』は味気ない話になったのでは、と思います。お釈迦様が足を止める前も、また悲しそうに立ち去ってからも、甘い香りを漂わせる白い花が何とも美しく書かれています。例えば桜、あるいは空などを見ても、人は気分によっていつもよりもきれいに見えたり、然して気を引かれることもない日もあるでしょうが、桜も空も人の気分に関わりなく存在するものです。極楽に咲くのも、地上に咲くのも、蓮の花が人の心情と無関係なのは同じようです。もしかしたらこの話で、カンダタとお釈迦様を見ているのは、蓮の花なのかもしれません。